地下水管理と住民の取り組み

1 日産車体の浄水場から市水道へ

この地域は、当初、日本国策航業―現日産車体株式会社(以下日産車体)の社宅で、その後住民が買い取り、改築などしながら住み続けているコミュニテイである。

この地域の飲料水は長年にわたり日産車体が、井戸水(地下水)の浄水場を設置し供給していた。だが、日産車体は度々、料金値上げをし、また浄水場の廃止を計画していた。地元住民はそのたびに様々な知恵を出し合い、協力しあって日産車体と協議を繰り返し、裁判闘争も辞さず、この水を守ってきた。値上げ理由は、施設の改修や人件費の高騰。浄水場の廃止理由は、水不足や水の汚染、人手不足(管理人がいない)、施設の老朽化などであった。水不足がひどい時は、夏季昼間の断水は常態化。一晩かけて翌日分を貯め水したり、入浴も制限。市などの給水車のお世話になったこともある。この断水状態に耐えきれず、市水道に切り替える家庭もあった。

それでもこの地域の多くの住民は、琵琶湖・宇治川を水源とする天ケ瀬からの市水道ではなく、この水を飲み続けることを選んだ。なによりこの水が、夏は冷たく冬は暖かい井戸水で、良質な自然の恵みの水であることを知っていたからである。

昭和40年代、会社の経営問題等からあらためて日産車体が浄水場廃止を打ち出した。地元では自治会を中心に、水道対策委員会を設置(第一次水対)。ある時には東京の日産車体本社にも出向き、また宇治市にも浄水場の存続を要望するなどして取り組みを続けた。

その結果、昭和53年、地下水供給を存続するかたちで、この浄水場は宇治市に移管された。当時の市長の英断で、浄水場は「市の自己水」に位置づけられたのである。16年4ヶ月かけて地元住民が取り組んだ成果であった。

当時この解決内容は「三者一両損」と表現され、日産車体・宇治市・地元住民それぞれが、応分の負担をするというものであった。具体的には、日産車体は、宇治市に2千万円の寄付と浄水場の土地を無償貸与。(その後日産車体が市に水道用地として寄付したので現在は市有地)。

市は、水量確保とより良い水質確保のため、水源深度を掘り下げ、ポンプを更新。住民は、市水道本管から各家に給水管を引き込みメーターを設置することと料金の値上げ。(昭和53年に締結された協定書―覚書)。住民は、市水道への移管に伴う引き込み設備費用のため、各組ごとに積立金を自治会で実施した。また水道料金は、それまで世帯制料金だったものが約3倍になった。

以後、この地域の飲み水は、自然の恵みの良質な地下水を、親の代から子の代へ、さらに孫の代へと今日まで飲みつがれてきている。

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